宮内庁長官発言に対する若干の感想

 

憲法及びその解釈を参照しつつ、また、憲法の精神や意図を探りつつ、素人なりに本件について考えてみると、
 
1 宮内庁長官の当該発言を、天皇の意図又は発言として見たときには、
 国民に対する、また、五輪に関する政府の振る舞いについての何らかの思いというのは確かにあるのだろう。
 新聞等で報じられてるような内容については基本的に同意見であり、
 そもそも、俺は、現下の情勢を踏まえ、今年の五輪開催には反対である。
※あれを天皇の(公式の)発言と読んでしまうのは、そもそも読解能力に問題があるので、論外。
 天皇の発言でなく、自らの「感想」であると、宮内庁長官自身が発言(要旨)している。
 
2 最近、新聞等で報じられてる程度ならば、
 「時事に対する感想」の範疇(表現の自由(制限されてはいるが)の範疇)に当たり、直ちに憲法に抵触するとは思えない。
 例えば、災害や原発事故に対する感想については、従来、問題とされていない。
 まあ、国民や政府の受け取り方次第だが、「国政に関する権能」の行使等に当たるとは言えないと思う。
 
3 そもそも、天皇は、政治的存在であることを免れず、
 言ってみれば、私的な部分を除き全ての行為(いや、私的な部分すらも)が政治的であると言えなくもない(政治的中立性とはまた別)。
 だから、「政治的発言」がどうとか言ってるのもちょっとおかしな話に見える。
 してみると、憲法1章も9条と同様に矛盾と妥協の塊と言えそうで、将来、改正が必要になってくると考えられるが、それはさておこう。
 実際的には、天皇の行為どこまでをOKとし、どこからをNGとするかが問題である。
 これについては、憲法で定める国事行為以外に、公的行為(行幸や、大会等の名誉総裁就任等)の存在を認めるように、現実に即して、憲法を合理的に解釈するより無いだろう。
 (つまり、基本的には、現状の天皇行為三分説=政府解釈と同じ立場を取る。)
 
4 そして、天皇の行動が、結果的に、憲法が禁ずる程度・態様の政治性又は政治的偏り(政治的中立性からの逸脱)を帯びるかは、実は、天皇の意図や表現よりも、受け取り手たる国民・政府の受け取り方の問題となるように思う。
 
5 2では、天皇の意図・発言として見たときは、違憲には当たらない旨述べたが、
 他方、宮内庁長官が「拝察」と称して、天皇の意図であるかのように自らの感想を語るのは問題であると考える。
 実際、それは宮内庁長官の感想に過ぎず、天皇のご感想ではない。つまり、天皇の意図であるというのは事実ではない。
 内閣や各政党の党首等がまともに取り合わないのも当然で、むしろ、これを公式に、天皇の意図として受け取ってしまうと、厄介なことになる。
 こうした悪例が認められると、誰かが「拝察」と称して、政治的働きかけを認める道を開くことになる。この場合は、天皇ご自身が発言されるよりも悪質になりうる。
 法令上禁止されてる行為ではないが、禁止されるべき行為であると思うのだ。
 
6 なお、天皇の意図を「拝察」した例は、2009年、民主党政権が、習近平天皇への特例会見を認めた際に、小沢一郎が「拝察」と称したものが挙げられる。
(この際に、世論から批判されたかはいまいち覚えていないが、俺は確か批判したと思う。
 これ以後は跡を絶っていたかのように見えたが、再び出来したと言うわけだ)
 
7 まず、宮内庁長官というのは内閣が任免する行政府の一官僚に過ぎず、制度上、天皇の臣下ではない。
 行政府の一官僚が内閣の決めた政策に反したり、内閣の統制から逸脱した行動を取るというのは、法令の明文で禁止されて無くても、内部統制からして明らかにダメ。
 1930年代のクーデター未遂事件で、青年将校らの暴走が黙認された場合や、満州事変で、関東軍の暴走が黙認された場合を考えて欲しい。
 内閣は、宮内庁長官を懲戒すべきで、もし、懲戒すべき法的根拠が無いならば、更迭すべきだろう。
 「法の支配」や「民主的統制」を貫徹するのならば、「憂国の至情」から出た義挙であっても、ダメなものはダメとしなければならないのだ。
 一体、西村が辞表を提出しないというのもおかしな態度だ。これで正しいことをしたと考えているならば、彼は独善にして僭越である。
 また、叡慮に出たことならば、本来は、彼や侍従長が諫言すべきところなのだ。
 つまり、本件は、宮内庁幹部(ひいては内閣)の怠慢でもある。
 
8 なお、一言しておくと、五輪は「政治」乃至政治問題(又は政治案件・政治マター)に当たるように思われる。
 五輪関連の事象には、国家・国民のリソースを大いに割いており、我々国民の関心が非常に高い。
 ゆえに、これらの事象に係る問題を政治問題として扱わないのは、詭弁であるように思われる。
 おそらくは、五輪憲章から導き出したであろう転倒した主張だろうが、五輪憲章には、政治的中立性を謳ってはいるが、政治問題として扱うことを禁じ、またはそうと当然に読み取れる規定は無かったはずだ。
 この際の五輪非政治論は、現実を見ていない観念論めいた主張だと思う。
 
9 天皇の五輪・パラリンピック両大会の名誉総裁就任及び開会式等への出席等についてだが、
 これはいくつかの慣例に従った「公的行為」に当たると考えられ、差し当たり、違憲にはならないだろう。
 なお、歴代の天皇が名誉総裁に就任された例については、1964年の東京五輪、1972年の札幌五輪昭和天皇)、そして、1998年の長野五輪(前天皇(現上皇))が挙げられる。
 
10 付け加えると、天皇は無答責で裁判権には服さない。
 天皇の国事行為及び公的行為の責任は内閣に帰し、内閣が、国事行為及び公的行為について、助言と承認を行い、天皇はそれに基づいて行為する。
 そして、国事行為及び公的行為に対する天皇の拒否権は認められない。
 
11 責任を有さない(しかし、実際権威とか影響力は有している)実質の「君主」又は「元首」(我が憲法は「国家及び国民統合の象徴」と称しているが)を、
 (大雑把に言って)国民の代表たる内閣が統制するというのが今の憲法体制(国体)のあり方である。
 その観点からも、宮内庁長官のやり方はまずいと言うことができる。
 
以上